ワープロ・ストレス
新しい職場ではワープロが主流だった
 荒井さん、五十二歳。小柄でこぶとりの係長。最近十五年間は出先の事務所勤務。家族的な雰囲気の少人数の職場がほとんどだった。苦労人で努力家の荒井さんは通新教育で書道を習った。今では五段。彼の起案文章は達筆できちっとした文章で有名。本人も秘かに自慢に思っていた。正月は事務所の片隅に彼の隷書の「謹賀新年」が必ず貼り出された。事務所で掲示する必要のある文章は必ず毛筆で彼が書くことになっていた。本人もまわりもそれが当然と思っていたのである。
 昨年の十二月、荒井さんは出先から本庁に異動。企画や調整を担当することになった。栄転である。
 十五年前に隣の課で仕事したことのある荒井さんは、仕事の手順など大筋はつかんでいるつもりだった。何の不安もなく新しい職場に出勤した。出勤してみた驚いたのは、エリートコースを歩いている若い課長をはじめ、課の職員全体が若いことだった。仕事の内容そのものは大きな変化はなかった。しかし、処理する手順や方法は十五年前と大分違っていた。荒井さんが特に一番戸惑ったのはワープロとパソコンだった。
 今度の職場は起案文章をすべてワープロで打つことになっていた。必要なデータはパソコンに入っている。前の事務所にもワープロはあった。主に若い職員が使っていた。触ったことは二、三度あったが実際の仕事に使ったことはなかった。
 荒井さんは当初OA機器を使う仕事を避けていたが、そうもいっていられなくなった。ある文章をワープロで打たなくてはいけなくなったが日中は他の職員の邪魔になるので、時間外にマニュアルを読みながら打ちはじめた。しかし、まずマニュアルに出てくる用語が理解できない。それにキーボードで文字を探すのがやっかい。目は疲れるし肩は凝ってくる。頭がボーッとしてきた。時間の割りに一向にはかどらない。三日連続で残業してやっと完成した。
 そんな毎日が続くようになって一ヶ月後、荒井さんは職場を休むようになった。心配して電話をした友人に、「ワープロやパソコンを見ると、何とも言いようのない不安感が襲ってくる。仕事に対する自信もなくなり、出勤しようとすると頭がボーッとしたりめまいがする。」と言ったそうだ。
 
テクノ・ストレスと新人類
 
 アメリカの心理療法家クレイグ・ロードは、面接調査を三年間行い、その結果を『テクノ・ストレス』(1984年)に著した。彼は人間とコンピュータとの関係がうまくゆかず、人間に無気力感や不安感などの病的な状態があらわれるのをテクノ・ストレスと名づけた。
 テクノ・ストレスは、不安型と過剰適応型に分けられるという。コンピュータに慣れていない者が使わなければならなくなった時、不安や恐怖感が出現するのが不安型である。一方、コンピュータゲームで育った新人類にはあまり抵抗がない。かえってコンピュータにとりつかれ熱中し、依存してしまうのが過剰適応型である。その特徴は、すべてを○か×で割り切ろうとする。対人関係の微妙なニュアンスがつかめず他人の感情がわからない。無表情で、スピードと効率性を追求する。対人交渉が苦手で、すべての人間関係がわずらわしくなるというものだ。
 
焦らず自分のペースで
 
 荒井さんは不安感と焦燥感がとても強かったので神経科に通院しはじめた。薬を服用することで不安感も少しずつ和らいできている。最近、丁寧に教えてくれると評判のワープロ教室に通いはじめた。ワープロの操作がのみこめるようになるにつれて、不安感や焦燥感も少しずつ軽くなってきたという。
 荒井さんは転勤による適応障害なのだろうが、テクノ・ストレスから見ると不安型だ。今まで誇りにしていたものがOA機器によって役に立たなくなる不安に直面したのである。身についた習慣を変えるのはむずかしい。特にうまくいっていた習慣を新しい職場にあわせて修正するのは、年配になればなるほど大変である。中高年層で仕事上OA機器を使わざるをえなくなった時、特に導入部分に気をつけてほしい。荒井さんのようにマニュアルで独習しようとしない方が良いだろう。